「三十の反撃」おすすめの本

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おすすめの本の紹介が続きますがよかったらどうぞ。
図書館に予約していた本を借りに行ったところ
珍しく夫が「こんなんあるよ」と教えてくれた本。
夫はタイトルに惹かれて中はよくわからずすすめてくれたようですが、
面白くて予約した本より先にどんどん読んでしまいました。

 

30歳になる有名企業の関連会社でインターン非正規職員として働いている女性が主人公。はじめタイトルは「普通の人」だったそうですが数年たって「一九八八年生まれ」というタイトルで韓国の済州4・3平和文学賞を受賞しその後「三十の反撃」で出版されたそうです。

2つめのタイトルにあるように主人公は1988年ソウルオリンピックの年生まれ。名前はソウルオリンピックの年に大韓民国で生まれた女の子の一番多い名前キム・ジヘ。同じ名前の人がクラスに必ずいた、そんなどこにでもいるひたすら大企業への就職を目指す若者のお話。
日本も韓国も一緒だなと思いました。
大企業を目指して努力して努力してそれでも落ち続けて万が一就職できてもその先に何があるのだろう・・・

 

あとがきにある作者の言葉の中に
「執筆しながら、ときどきカフェの中の若者たちに、ちらりと目をやった。それぞれ無表情で座って参考書を眺め、勉強会を作って模擬面接をしている疲れた顔。現実になるかどうかわからない目標を心に秘め、とにかく頑張っているという点で、彼らと私は同じ仲間だった。私は、自分自身とあなたたちに聞きたかった。どんな大人になりたいのかと。今という時間をどのように記憶し、刻んでいくつもりなのかと。反撃がうまくいかないとしても、心の中にこころざしの一つくらいは持って生きるべきではないのかと。そんな問いや思いが集まって、この作品が生まれたのだと思う。」

ずいぶん昔のことになるけど私も会社に勤めていた頃、転職を考えていた頃、転職先でいつまでここにいるのだろうと考えていた頃、大阪や神戸の公園で一人ぼーっとしていた時間を思い出したりしました。

 

訳者のあとがきの中に済州4・3平和文学賞の審査評の一部が紹介されています。

「八八万ウォン世代の主人公が虚偽の世の中を変えようともがく生きざまが共感を呼ぶ。小さなチェ・ゲバラたちから希望をもらえる。」

「韓国社会にはびこるニセモノたちや、弱者を巧妙に搾取する構造的矛盾に抵抗する若者たち。彼らの抵抗は悲壮でも英雄的でもなく、ゲームのように軽快に行われる。そんな抵抗の行動を経験しながら、自分の小さな従順な自我から抜け出し、主体的な自我を取り戻していく主人公。ウイットに溢れる、清々しくて愉快な小説だ。」

日本社会も全く同じではないでしょうか。ニセモノだらけ。
何が本当で何が嘘かわからなくなっている私たちの生きている現実。
みんながヒーローにならなくていいし、みんながなにかすごいことを成し遂げなくてもいいのだけれど、それぞれがニセモノを見抜く術を身につけることはとても重要なことなのではないのかなと最近考えています。
都会の公園で一人でぼーっとしていた頃、ニセモノを見分けられていたかと考えると「できていた!」と即答できません。ただ、世間の風潮に流されてこのままの方向に努力していくことが自分にとってのホンモノの答えではないのではないかと思って考えていた時期だったのだと思うのです。

 

このブログは「不登校」で悩んでいる方も少し読んでくださってるかなと思うのですが、息子の映画「不登校のススメ」の上映会の時にも何度かお話している「不登校って誰にでも訪れるもの」となにか共通しているものも感じました。
不登校で悩んでいる時というのは、何かしらニセモノを感じていて自分にとってのホンモノを探している時期なのではないでしょうか。そばで見ている者にとっては「他の人たちよりどんどん遅れてしまう。将来大丈夫なんだろうか。」とやきもきする時間かもしれませんが、大人になってからそういう時期を迎える場合もありますし、またそんな時期を無理やりねじ伏せてしまったために心身ともに不調を感じてしまう場合もあるのではないかと思います。

年々ニセモノがはびこるこんな世の中なのであせって事を運ばずじっくりとホンモノを見極める時間を作ってあげることがむしろこれからは大切なのではないかなとも思いました。息子を見ていると本当にそんな気がします。
小学校1年生の時のはじめの担任の先生の
「えんぴつの握り方とかお箸の持ち方とかぐらいはちゃんと出来ていないとこの先困ると心配です。」
など言われていたことをふと思い出しました。今の息子を見たら先生は驚かれるのではないかなと思います。えんぴつの握り方は相変わらずかも知れませんが・・・
話がすっかりそれてしまいましたが、若い方はもちろんどの年代の方にもおすすめしたい本です。今年の夏、日本語訳が刊行されたところのようです。ぜひご一読ください!

 

「間違っていることを間違っていると言うだけでも少しは世の中が変わる」

主人公に多大な影響を与える登場人物ギュオクの物語の中の言葉。
私もこの言葉を忘れないように生きていきたいと思います。

「ほんとうのリーダーのみつけかた」おすすめの本

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とても久しぶりのブログになってしまいました。

今回は本の紹介をしたいと思います。

「ほんとうのリーダーのみつけかた」梨木香歩

 

今の社会みんなが意識しなければならないことが書かれている本だと思うので

ぜひ読んでみてください。

 

若い人たちに向けてとてもわかりやすく読みやすく書かれています。

この本は

「僕はそして僕たちはどう生きるか」

というこちらも梨木香歩さんが2007年頃書かれた小説の文庫化を記念した

若い人たち向けの講演会をもとに文章化されたものです。

若い人たちにわかりやすく語りかけている梨木香歩さんの口調そのままの

やさしい文章ですが、内容はとても考えさせられるものです。

 

小説もこの本もどちらも「同調圧力」をテーマにしています。

同調圧力が蔓延している世の中だからこそ、

日々考えていかなければならないテーマなのだと思います。

 

「学校に行きづらい」「学校に行きたくない」

と悩んでいる方や職場で悩んでいる方、友人関係で悩んでいる方、

今の日本って大丈夫なの?どうしたら暮らしやすい社会になるんだろうと日々考えている方、これからどうやって生きていこうと考えている方・・・

皆さんぜひ読んでみてください。

 

今月末には衆議院選挙があります。

息子のどかにとっては初めての選挙となります。若い人たちだけでなく私たち皆が

「ほんとうのリーダーのみつけかた」を学ぶべきだと思います。学べないままそういった訓練ができないまま大人になっている人が私も含めて多いと思うのです。

いくつもその通りだなと思うところがあるのですが、今の日本社会そのものだと思った文章を引用させていただきます。

 

批判って難癖をつけるとか文句ばかり言うということとは違います。正しい批判精神を失った社会は暴走していきます。批判することはもっとよくなるはずと理想を持っているからできること。社会を愛する気持ちと反対のものではないのです。

 

最近の日本社会はまさに正しい批判精神を失って暴走しているような気がします。

もうこれ以上よくなるはずがない、批判なんかしても仕方ない、文句を言っても目をつけられて損するだけだなどと思っていては何も変わるはずがないし、よくなるどころかどんどん悪い方向に行くだけだろうと思います。

それぞれの場所でそれぞれが批判するということはとても大切なことだと思うのです。それぞれの理想の社会を目指す気持ちを失くしてはいけないと思います。

 

他にも「群れ」についても書かれていて、人間という動物は「群れ」になって生きていくものなので「群れる」ことが悪いということではなく、「群れ」とは個人が一人ひとりの考えで集まってできるべきもので「群れ」に所属する前に個人として存在すること、盲目的に相手に自分を明け渡さず考えることができる個人であるべきだと。

これも今の社会で特に意識すべきところではないかなと思いました。

自分のものさしではなく他人によって自分の価値までも決めてしまいがちなところが多くあるような気がするのです。そうしているうちに自分が自分でなくなって一体自分って何なのかわからなくなってしまう、そういったことでの悩みもよく聞くように思います。

 

また「言葉」についてもまさにと思わされました。

今の政権の大きな罪の一つは、日本語の言霊の力を繰り返し繰り返し削いできたことだと。それが国全体の「大地のようなもの」まで削いできたのだと。「大地のようなもの」こそほんとうのその国固有の「底力」だと思うと書かれています。

 

今、言葉の使われ方がひどく乱れていると思います。私たちが高校生ぐらいの頃もそんな風に言われていたような気もします。が、それは言葉の変化であって時代によって変わっていく部分は常にあるのだと思うのですが、今は若い人がというのではなく、どの世代でも言葉の使い方が粗雑なような気がします。それも変化の一つという人もいるのでしょうが、言葉を大切にしていなければ何か大切なものを失ってしまうのではないかと思います。

 

大切なものを失わないようにこれからできることも書かれています。

一つひとつの言葉をないがしろにせず大切に。

自分の気持ちにふさわしい言葉を丁寧に選ぶ。

 

語彙力がないながらも言葉を大切にもう一度このブログを綴っていきたいと思います。記憶をたどりながらのどかのこれまでの様子もまた載せていきますね。

2年前に完成した映画「不登校のススメ」は今月も2箇所で上映していただきまだまだ観たいという声をいただいています。

今回おすすめした「ほんとうのリーダーのみつけかた」も映画「不登校のススメ」も自分で考えることの大切さが伝わるきっかけになればいいなと思います。

 

 

 

和と平  

 

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12年前の5月24日はのどかの弟が生まれた日でした。

のどかの弟はたいらと言います。

和と平で平和。和平。

2人の息子に恵まれた私にとって本当に平和な幸せな時でした。

 

それから8ヶ月たったある日、たいらは突然いなくなってしまいました。

眠っていると思っていました。当時5歳だったのどかが様子を見に行くともう息をしていなかったのでした。

たった5歳ののどかはたいらの様子がおかしいのでたいらの胸に耳をあてて動いていないことを確認したようでした。すぐに私に知らせてくれました。

車で15分ぐらいの病院へ救急車を待つより直接連れて行った方が早いと連れていきましたが一度も呼吸は戻りませんでした。

今でも信じられない気持ちで悪い夢だったらどんなによかったのにと思います。

が、現実だということはもちろんわかっています。

 

たいらが亡くなった直後は毎日私が泣いてしまっていたからか、のどかが「生まれてこなかったらよかったのかも。」と言いました。

私はどうしてもそれだけは思いたくなかったので「いなくなったことは本当に悲しいけど平が生まれてきてくれたことはそれ以上に嬉しいことだから平が生きていたことを忘れないでね。」と伝えました。

今ではのどかもそう思ってくれているようです。「生まれてこない方が良かった。」と言ったことも忘れているようです。

 

平は敦賀にある助産院で生まれてくれました。

すべてを包み込んでくれるような優しい場所です。平が亡くなったことは本当に寂しい。でも平が生まれてくれたから私はその助産院で出産することができて幸せでした。のどかにとっても助産院で過ごした時間はきっと心に残っていると思います。

出産について書くととても長くなりそうなので今は書きませんが、平が生まれた時にのどかは一緒にいてくれました。夫はそういう場所にいることが絶対に無理なので外で耳を澄ませていたそうです。無事に生まれた後、のどかと二人で助産院中を踊りながら走り回っていました。

 

そんな素敵な出産を体験できたからその後の今までの人生で一番つらい出来事を何とか乗り越えられたのかもしれません。

乗り越えられたかどうかは今でもわからないのかもしれませんが。

 

平は8ヶ月しか生きていなかったのですが、いろんなことを教えてくれました。

生まれてくることの素晴らしさ、家族で過ごせる時間の大切さ、死というものは突然誰にでも起こり得るものだということ。

のどかは平が亡くなった時、死んだら終わり。だから生きている間は精一杯生き続けなければいけない。ということを本当の意味で学んだのだと思います。

 

このブログの下書きは2年前に書いたものです。

毎年、なんとなく公開しそびれてまた1年過ぎていました。今年は公開しようと思います。たいらのこともまた書いていければと思います。

 

 

 

 

17年前の誕生日 -のどか誕生ー

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 2才の時。鮎をつかんでいる。
 

 

 

17年前の朝も雨が降っていました。のどかが生まれた日の朝です。

 

前日から少し予兆があり、初めての出産の私はどきどきしながら気づいたら寝入っていましたが、朝5時過ぎに陣痛で目が覚めました。

 

「初産なので15分おきに陣痛がきたらすぐに夜中の何時でも産院に電話してください。」と言われていたので電話しました。

なかなか電話に出てくれなくて、ようやく院長先生の声(すごく眠そうな)「あー、そうですか。お家、近かったですよねー。朝、外来の開く時間に入院の準備をして来てください。」と。

え?今すぐ行くんじゃないの?朝まで待つの?大丈夫なんだろうか?

と思いつつもどうしようもないのでもう一度、横になってうとうとしながら朝に。

 

出産前はしっかり食べておいた方がよいと言われていたので、のどか父が前日の鍋の残りを雑炊にしてくれたのを食べていると電話がかかってきました。

院長先生から「まだ家にいるんですか?すぐ来てください。」

 

外来の時間まで来ないでって言ってたやん!!!

とりあえず、急いで残りを食べて急いで荷物を持って、当時住んでいた団地の4階から急がず階段を下りて車で病院に向かいました。

その頃には、結構痛くて雨が降っていたのもおぼろげながら覚えています。

病院に着くと、受付の方に「すぐこちらに来てください」と言われ、診察。

院長先生「よく我慢してましたね。」

待つようにいわれたからやん!!!

「わりと早く生まれるかもしれんね」

だから早く来たいって電話したやん!!!

 

その後は、院長先生は外来の診察があるので「待っておいてください」と。

「昨日、分娩が2件もあって、入院患者さんでいっぱいでお部屋が空いてないので、今日の午前中に退院される人がいるのでその方が退院されたらお部屋は用意できるんですけど、それまでの間、看護婦の宿直部屋で待っておいてもらえますか。」

え?まぁ仕方ないですが。

「お一人は1ヶ月早く生まれられて、ちょっと大変だったので院長先生もつかれておられたんですよ。」あー、それで眠そうだったんですね。それで朝になってから来てって言われたんですね。

それにしても・・・仕方ないけど。

 

それから宿直部屋で待機。

「ここ畳だからベッドがなくて申し訳ないんですけど、楽な恰好で横になっていてください。テレビはよかったら見てもらっていいので。」

忙しそうに言って去っていかれる看護婦さん。

のどか父が退屈しのぎにテレビをつけると、NHKで「新日本探訪」だったかの再放送をやっていたそうで「ノスタルジックやなぁ」と喜んで見ていました。

私は、相当痛くなってきてあまり内容も覚えておろず、なんだか画像もノスタルジックなのと相まって不思議な感じでした。ほとんど覚えてはいないんですが。見ているどころではなくて・・・

そうしているうちに食事担当の方が

「今日、お昼カレーなんやけど食べれないよね?よかったらだんなさん食べてくれてもいいけど」と見るからにゴテゴテしてそうなカレーを持ってきてくれました。

いや、無理。見る余裕もない。

「なら、食べるよ」とのどか父。食べながら引き続き「新日本探訪」を見ていたような。

その頃になると、さらにあまり覚えていなくて、看護婦さんが

「そろそろ分娩室のお隣の部屋に移っておきましょうか」と隣の部屋へ。

そこからさらにあまり覚えていないのですが、痛くなってきてのどか父が看護婦さんを呼びにいったのか、様子を見にきてくれたのか忘れましたが、

「これはもうそろそろみたいね。分娩室に移動しておいた方がよさそうね。」といよいよ分娩室に。

そこからも早かったみたいで、「もうすぐやわ。先生呼んできて」と助産師さん。

午前中の外来の最後の患者さんが待っておられたみたいなのですが、急いで院長先生が来られたようでそれから割とすぐに

「おぎゃー」とのどかが誕生しました。

思ったより小さくて小さくて。でも元気そうでした。

院長先生が「記念写真を」と。

隣の部屋で待っていたのどか父(こわくて初めから立会ではなかった)を呼んでくれ、3人でと。

その頃にはのどかはすっかり泣き止んでいて静かになっていたのですが、院長先生が「ほれほれ。泣かないと!」と小さな足の裏をこんこんとたたくとまた「おぎゃー!」と泣き出しました。

 

入院から出産まで初産とは思えないと言われましたが、ドタバタしていましたが、無事に生まれてきてくれて本当によかったと思いました。

その後ももう一つのどか父の語るエピソードがあって、

個人の産院で2日目から母子同室だったので初日は他の赤ちゃん2人と並んで寝かされていたのどか。のどか父が「どれかな?」と見に行くと、2人は「うえーん!」という感じでかわいらしく泣いているのに、1人だけのどか父の方をギロッとにらむ赤ちゃんがいて「なんや?」と思って名前を見ると「山田ベビー」と書かれていたそうです。

 

17年前、こんな世の中に生まれてきてくれて本当にありがとうと思いました。

17年経って、大きくなって今では私だけでなく父にまで偉そうに説教するまで成長してくれてありがとう。

 

こんな世の中に生まれるようにしてしまって悪いなぁと当時も思っていました。

のどかが生まれるとわかってすぐイラク戦争が始まって、日に日に見たくないニュースばかり流れるようになったからです。

私はテレビを見ないようにして、当時夕方再放送で流れていた「ハイジ」だけ楽しみにしていました。

17年たって、よりひどい世の中になり、より申し訳ない気持ちでいっぱいです。

でもやっぱり生まれてきてくれてよかったと思います。

生まれてきてくれて、いろいろ大変なことだらけの世の中ですが、のどからしく幸せになってほしいと願っています。

生まれた時に「強く優しい子になってほしいな」と思ったのですが、思っている以上に強く優しくなってくれているなと思います。

 

今日は、17年前の記憶を思い起こしてのどかの誕生の思い出を綴ってみました。

日々、憂鬱なことばかりの世界ですが、命が生まれるということは本当に素晴らしいことだと思います。

今まで生まれてきた命、これから生まれる命、どちらもすべての命を大切にできる社会になっていかなければいけないと思います。

コロナ騒ぎでいろいろなことの本質が浮き彫りになり、これでいいのか、これからどうしていけばよいのか、真剣に考えていかなければいけない状況になってきています。私たちの暮らし方、生き方、教育のあり方。

しぶとく生き抜いてみんなで考えていきましょう。  

自主休校のススメ(←不登校のススメ)  2020年4月

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新型肺炎 COVID-19 の感染拡大防止として、安倍首相が唐突に全国の学校休校措置を要請した3月初旬。イ ベントなどの自粛要請と休校要請のみで戸惑う声も多く、何より文科省も何も聞いていなかった?現場の先 生方は、保護者からの問い合わせの電話で知ったというあまりにもお粗末な事態に呆れるばかりでした。


やり方は本当にひどいし、政府にきちんとした対応を求めるべきだとは思いますが、休校措置自体は感染防 止という点においては、意味のあることだと思います。 最近になって厚生労働省が発表した密閉・密集・密接にぴったり該当する学校。
それなのに感染者数が増えて、東京や近県 4 県が自粛要請を呼びかけた 3 月 28 日㈯の首相会見では、休校解除の方針。

何故危険だと厚労省自ら発表している三密の場所、学校を再開させようとするのでしょう。本当 に意味がわかりません。

最近、毎日毎日政府からの発表があるたびに「頭おかしいんじゃないかな」とつい口癖のように言ってしま います。理解できないことが多すぎて、時々本当に現実に起きていることなのか?

和牛とかお魚とか?この人たちは、一体どういうつもりで方針を立てているのだろうか? 現状をどう考えているのだろうか?と疑問でいっぱいです。 コロナウィルスへの不安もますます広がる中での休校解除。意味がわかりません。

子どもは無症状が多いから心配ない、とかそんなこと何の説得力もありません。 ほとんどの子どもが無症状で元気なまま気付かず過ごせたとしても、我が子だけ具合が悪くなったらどうし てくれると言うのでしょう? 子どもはたまたま元気だったとしても親や祖父母に感染してしまって、その中の誰かが亡くなったらどうし てくれるのでしょうか? あまりにも無責任だと思います。

学校再開を希望する声もあるという意見もあるようです。 学校が大好きな子どもたちや先生方、子どもたちが学校に行かないと仕事を休まなくてはならなくなる両親 などなど。
学校が大好きな子どもたちでも、感染のリスクがある場所だときちんと説明すれば「感染してもいいから行 く」とは言わないでしょう。 勤勉な先生方でも、感染の危険性を本当に感じていたら、子どもたちを感染させるかもしれない場所の再開 を望むことはないでしょう。子どもたちが感染し、子どもたちの両親が感染し、子どもたちの祖父母が感染 する。他の国の状況を見ていても、その中の誰かが重症化し、死に至ることは容易に想像できるのでは、と 思うのですが。 子どもたちをそんな危険にさらすことは、もちろんあってはならないことですが、先生方も感染する可能性 だってあるのです。先生方が感染し、その家族に感染してしまい、その中の誰かが重症化し、死に至ること も起こり得るのです。 子どもたちが学校に行かないと仕事を休まなくてはならなくなる両親も、子どもたちが感染する危険性を本 当に理解すれば、休校を希望すると思うのです。

不要不急の外出を自粛するように、三密を避けるようにと政府は言っています。 感染の可能性を少しでも減らすために各自で本当に危険だという認識を持たなければならないということで す。 それなのに、休校に関しては各自治体の判断に任せるなんて無責任この上ないと思います。
他のイベント自粛や何もかもが無責任です。現場に判断を任せ、負担も損失も押し付ける無責任な政府なの でまたかと思うだけですが。

一昨日、Twitter で #命守るために学校を一斉休校に に参加しました。 感染数が現在、少ないところだってどこにどれぐらい無症状の感染者がいるかわからないのです。 どうして、それがわからないのか理解に苦しみます。 現状で感染者数が少ないところこそ、今は休校措置を延長してできるだけ外出しないようにして、感染の ピークが過ぎるのをただひたすらじっと耐えて待つしかないのです。
嵐の時にうろうろ歩き回っている動物はいません。 どの動物もそれぞれの棲み処に入ってじっとしているではないですか。 人間も同じだと思うのです。どうしても出て行かなければならないお仕事の方は、戦場に出ている戦士なの です。一般人は、せめて戦士の足手まといにならないようにできること-今できることはじっとしているこ と-をするしかないのです。
その上で必要な物資を届けるように政府にどんどん声をあげて伝えることは大切です。 勝手にこもって、勝手に野垂れ死んでおけと言わんばかりの態度には大きく抗議の声をあげるべきです。緊 急事態だから、各自で努力して工夫してなど政府に言われる筋合いはありません。 国民のために何もできない政府なら、はっきり言って存在意義はありません。

 

もっともっと、はっきりと「何もしてくれないならあなたたちは必要ない」と伝えなければ、全く何の危機 感もなく、日本人は従順で自分たちで工夫して何とかするだろう、政府側に被害が及ぶことがなければ放っ ておけばよいと思っているだけなのです。
今回の新型コロナウィルスの件で、よりはっきりしてきたことがあります。 この国の政府の言う通りにしていたら、命を奪われるということ。 この国の政府にまともな判断を期待しても無駄だということ。 これからは、自分たちで判断して自分たち自身の命を守らなければならないこと。 ただ、政府というものは存在しているのでやってもらう必要があることはどんどん大きな声で訴えなければ なりません。

自治体に休校延長を求める声を届けていきましょう。 まだここは感染者数が少ないから、大丈夫なのでは・・・いえ、無症状で感染がわかっていない人がたくさ ん潜んでいる可能性があるので大丈夫ではないのです。 児童・生徒の中で感染者が出た場合は、休校になるということです。出てから休校にしても、それまでにす でに感染してしまっている可能性が高いのです。すでに手遅れになるということです。 手遅れになってからでは遅いのです。 ならば、今すぐ学校を再開しなくてももう少し休校を延長し、在宅でできるような方法を少しずつでも考え ていくことはできないのでしょうか。 不用意に再開することでどれだけの命が危険にさらされることになるか誰もわからないのです。被害が少な ければそれでよいのではないでしょうか。 そこから学ぶことを再開すればよいのではないでしょうか。

どうしても通学している学校が再開を決めてしまったら、自主休校するしかないと思います。 命より大切なものはありません。

私には息子が 2 人いました。
次男は 11 年前、生後 8 か月で突然死しました。
次男のことは 2 年ぐらい前に記事に書いたのになかなか公開することができずにいました。
朝、起きてもう一度寝たと思っていたのに亡くなっていました。

人間って死ぬときは意外と急に死ぬものなんです。次男はそれを教えてくれました。

生きていたら今年 12 歳。のどかと一緒に楽しくいろいろなことをしていただろうと思います。


生きていたら、いつからでも学んだり遊んだりすることができるのです。 どうしても休校延長措置が取られなかったら、本当によく考えて自主休校してください。

 


命を大切にしてください。

そしてもうひとつ大切なことですが、不用意に自分達が動くことで誰かを感染させてしまうかもしれないということもよく考えなければならないと思います。

 

学校ってそもそも行かなければいけないところなの?

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のどか7歳。建設中の家の薪ストーブ置き場づくり。

 

 

不登校で悩んでいる方に「のどかくんが学校に行かないことについて悩んだことはないですか?」と時々、聞かれることがあります。

「悩んだことは一度もありません。」と答えています。

聞かれるたびにもちろん思い返しながら考えるのですが、「悩んだことないなぁー。」と思います。

 

なぜ学校に行くのでしょう?

成長して社会に出た時に自分らしく生きられるように。

そのためにいろいろなことを学ぶために行くところだと思います。

 

子どもが楽しく学校に行っているなら学校に行っていてとても良いことだと思います。

子どもが学校に行きたい、または行きたくないと意思表示をしているわけでない場合は子どもの保護者は学校に通わせる義務がある。

ただ、子どもが学校に行きたがらない場合は、無理に行かせなくても良いのです。子どもは行きたくなかったら行かなくて良いのです。

以前のブログに載せていますが、

「児童・生徒が7日以上出席せず、その他出席状況が良好でない場合で出席させないことに正当な事由がないと認められるとき」就学義務履行の督促を成さなければならないと文科省のホームぺージに記載されています。

その「正当な理由」とは、①事故や病気によるもの ②不登校 等と書かれているので「不登校」の場合は、行かなくて良い正当な理由があるということなのです。

 

それでも「学校に行かないことは悪いことだ。」と思いこまされている方がとても多いことを「不登校のススメ」のお話会やネットでの不登校に関するいろいろな投稿で実感させられます。

 

どうして学校に行かないことは悪いことなのでしょうか?

のどかが小1の時に教頭先生がのどかを説得(?)しようと言ってきたことは3つ。

1.文科省の「学習指導要領」を持ってきて、「これは教頭先生とか校長先生とか教育委員会の人とかよりもっと偉い人が決めてるもんなんや。ほらこの漢字のページ見てみ。こんだけの漢字を小学校6年生までに覚えないとあかんのや。学校来なかったらこんな全部覚えられへんやろう。

 →のどかの答:家でも覚えようと思ったら覚えられると思う。

 

2.朝きちんとした時間に起きなくて寝すぎたりしたら頭が痛くなったりするやろう。大人になったらみんなきちんとした時間に起きて会社に勤めないとあかんから、小学校のうちからその練習をしておかなければならない。

 →のどかの答:寝た方がいい時に遅くまで寝ていても頭は痛くならない。みんな会社に勤めると決まっているわけではないし、のどかもいつも遅くまで寝ているわけではなくてお父さん、お母さんと一緒に起きて畑を開墾したり、いろいろ家の仕事をしてるから学校で会社に行く練習と言われてもよくわからない。

 

3.先生は車でスピードを出すのが好きやから家から学校まで来るのに、もっとスピードを出したいけど他の人に迷惑をかけたらあかんから制限速度を守って来てる。ルールは守らないとあかん。

 →のどかの答:それとこれとは別問題だと思う。

 

余談ですが、給食食べずに「おいしくない」と言ってて食べてみたら「おいしかった」ということもあるだろう。食わず嫌いはよくない。という話もありました。

 →のどかの答;だから僕は、1月食べてみて決めたんです。

 

どれも「学校に行かないことが悪い」ということの理由として成り立つとは思えません。

全く理由にならないことをこじつけて言っているようにしか思えません。

のどかに「別問題」と指摘されて、教頭は「そうだな。確かに別問題だった。では私はこれから用事があるので失礼。」と去っていくし、別の日に11で話した校長は「君より学校が嫌な人はたくさんいるんです。君は我慢ができないだけなんです。」と言うし、のどかに「学校に行かなければならない」理由を説明できた人は誰もいませんでした。

それは当たり前のことなのです。

「学校に行きたくないのに行かなければならない」理由なんて存在しないのです。

 

でも、なぜか「学校には行かないといけない。」「学校に行っていないのは悪いことだ。」と思わされているのです。親や祖父母や近所の人や先生や親戚の人や友達や…社会の大多数の人たちによって。

 

学校に行っていないと怠け癖がつく

 →学校に行っていても大人になって怠けている人はたくさんいます。

 

学校に行っていないと勉強ができない

 →学校に行っていても勉強ができない人はたくさんいます。

 

学校に行っていないと社会性が身につかず、社会に出てから上手くひとづきあいできない

 →学校に行っていても社会性はなく、ひとづきあいが上手くいかない人はたくさんいます。

 

学校に行っていないでだらだらしていると健康を損ねる

 →学校に行っていても気付かないうちに無理をしていて健康を損ねる人はたくさんいます。

 

他にもいろいろと「学校に行っていないと〇〇できないぞ。」とか「学校に行ってないと○○になってしまうぞ。」など起こるかどうかわからないことをさも起こるかのように表現して脅してくる言い方をされた方も多いかもしれません。

ご自分は「学校に行っていた」からそれが当たり前だと思って、そのように言われた方もいるかもしれません。

でも、ちょっと考えてみてください。

 

学校に行っていないと怠け癖がつく

 →学校に無理に行ったことで、取り返しがつかない程深く傷ついたり、病気になったりして「怠ける」つもりはなくてもどうしても身体が動かなくて、他の人からみると「怠け」ているように見えてしまうという状況になってしまった。

 

学校に行っていないと勉強ができない

 →学校に無理に行って、無理やり勉強させられて、すっかり「勉強嫌い」になってしまった。小さい頃は何にでも興味をもっていたのに。

 

学校に行っていないと社会性が身につかず、社会に出てから上手くひとづきあいできない

 →学校に無理やり行っていて、いじめを受けたり他の人へのいじめを見たりしてすっかり人間不信に陥ってしまって、ひとづきあいがこわくなってしまった。

 

学校に行っていないでだらだらしていると健康を損ねる

 →学校に無理やり行っていて、身体を壊してしまった。=健康を損ねた。

 

学校に行かなかったらこんなに大変なことになるかもしれないと脅される為に「学校に行かないことは悪い」と常々思わされている人が多いのですが、学校に無理やり行くとこんなに大変なことになるかもしれないのです。

 

脅してくる方々に伝えたいと思います。「あなた方が無責任に学校に行くことを勧めてきたことで取り返しがつかないぐらい傷ついた子どもたちがいるかもしれない。その責任を取れるのですか?」と。

 

学校に行く・行かないということについては、その子どもが本当にどう思っているのかをよく聞いた上で、子どもと相談して決めたらよいことで周りの人間が「良い」「悪い」と決める問題ではないのです。

 

最近の学校のいろんな現状を見ていると、少しでも「行きたくない」という状態になったら、「行かない」方が良いのではと思うぐらいです。

学校へ行かないことによる弊害より行くことによる弊害の方が多いように思えてなりません。

上の例に挙げたのが「学校に行かないと困るよ」とよく言われることかなと思うのですが、特に気になるのは「勉強ができない」ということではないかと思います。

実際、のどかも小1の時に教頭先生に脅された訳です。

私たちが元々「学校に行っている方がみんなと一緒に勉強することでいつの間にか覚えられることが多いかもしれないよ。行かなかったら自分で全部覚えないといけないよ。」と言っていた上で「それでも絶対に行きたくない。」と固く決心していたので、のどかには全く効かなかった訳ですが、事前にそんなことを考えず分厚い学習指導要領を出して来られて「これ全部覚えられるか?」と1年生の時に言われたら…

私が1年生の時なら「学校でがんばって勉強します!」と答えていたのでは…と思います。

 

親や周りの人が「学校に行くもの」と思っていると、どうしても子どもは「学校に行けないことは悪いこと」と思ってしまうのだと思います。そして悩まなくてもいいことで「自分は悪いことをしている。」「自分のせいで親にも迷惑をかけている。」と悩み苦しんでしまうのだと思います。

先程から述べていますが、そもそも「学校に行かなくてもよい」のなら何も悩む必要はないのです。何も自分を責める必要はないのです。

親もまた同じで昔からずっと「学校に行くもの」と思わされてきたから、子どもが「学校に行かない」状態になったら「悪いこと」をしている、そしてそれを許してしまっている自分は「よくないこと」をしていると思って苦しんでしまうのだと思います。

それに追い打ちをかけるように祖父母や周りの人々が「学校に行かないと大変なことになる。」と根拠のない脅しをかけてくるので尚更です。そして親も苦しんでいるのを見て、子どもは更に苦しむということになっているのだと思います。

 

「学校って行かなくてもいいんだ。」と思ってみると、「行かないとよくない」と思っていた理由が見当たらなくなってきて大した問題ではないのだと思うようになると思います。

 

実際、学校に行かなくなって何が変わるかというと毎日家に子どもがいるということになるということです。うちの場合は、当時今よりも辺境の土地で畑の開墾や家の改築などをしていたので、一人働き手が増えたという意味でも全く問題はなかったわけです。

でも普通、現在の家庭ではありえない状況です。

大抵のご家庭ではお父さんもお母さんも仕事に行っていて、平日の昼間子どもが家にいるというのが実際問題困るという場合が多いのではないでしょうか?

私も田舎で花屋を開業する以前は、大阪で会社勤めをしていて、夜遅くまで残業という生活をしていたこともあるので会社に勤めながら平日の昼間まで子どもと一緒にいられないというのは、よくわかります。

 

また、学校へ行かないということでまず学校と何らかの接触をしなければならない。連絡をしなければならない。その対応が煩わしいということはあるだろうと思います。

そして周囲の人への説明。「学校へ行かないと大変なことになる。」という脅しへの対応。

どれも「学校って行かなくてもいいんだ。」と思った上で対処すると、ただただ煩わしいだけで別に「悪いこと」をしているという自責の念にかられることはなくなると思います。

学校への連絡は、煩わしいけど学校へ行っていても生じることも多々あるし、その都度対処するだけ。

周囲への対応も、どうしても必要な場合は説明するけどわざわざ言う必要がなければ言わなければいい。(祖父母など言っても理解できないだろうと推測される場合はあえて言う必要はないのではと思います。)祖父母が隣に住んでいるとか、近所の人が聞いてくるとか、どうしても言う必要があれば「学校に行く方が本人にとって良くないようなので学校には行かないことにしたんです。」ときっぱりと胸を張って説明したらよいと思います。

この、「きっぱりと胸を張って」という点が意外と重要で、少しでも自信なさげに悩んでいる風情を見せると「学校に行かないと大変なことになるよ。誰でも行きたがらない時はあるけど無理にでも行かせといた方がいいよ。休み癖がついたら大変だよ。不登校になるよ!」という脅しが始まります。

くれぐれも「きっぱりと胸を張って」説明しましょう。

もし「きっぱりと胸を張って」まだ言えない…という場合は、できるだけ説明をさける。適当に話をそらすとか「まぁいろいろあるみたいだし、今様子見てるし。ちょっとそっとしといて。」と。それでも言ってくるなら「周りがいろいろ言うとかえってよくないので黙っておいて。」と。

 

何度も先延ばしにするより、一度「きっぱりと胸を張って」言う方が楽だと思うのでできるだけ早くそうされることをお勧めします。

私たちの経験でも「きっぱりと胸を張って」言うと、学校の先生も周りの人も「へー、そうなんですね。」と言うだけで脅してくるようなことはありませんでした。

 

平日の昼間、子どもが家にいるというのも年齢によって対応は様々だと思いますが、私たちのような辺境の地でなければフリースクールや居場所のようなものも最近は増えてきているようですし、子どもが行きたがるところを探していくなど具体的な対応策をいろいろ試してみるとよいと思います。勉強熱心だったら塾だけ行くというのも一つのやり方でしょうし、最近は無料のネット学習サイトもいろいろできているのでそれを使って学習していくこともできます。(以前のブログで紹介していますが、のどかは「eboard」というサイトを楽しんでいました。)

 

子どもは、自分の興味があることなら勝手にどんどん調べたり、学習したりして習得していきます。

学校で嫌々勉強しているより、自分の興味の赴くままに調べて学んでいる方がこれからの時代、自分の得意分野をより伸ばすことができて、大人になってからも役立つことが多くなると思います。

学校で無理やり覚えさせられていることなど、これからAIやロボットがどんどんやっていく時代になって「何の役にも立たなかった」となる可能性も増えてくるのではと思います。

今でも学生時代は、「余計なことを考えず言われる通りやっておけばよい。」と言われ続けていざ社会に出る段階になると就職活動で「自主的な行動が大切。自分で考えて動けないと社会に出て通用しない。」と言われる。これって矛盾していませんか?

最終目標は社会に出ることなので、それならば学校で「言われる通りにやれ」と言われることはやらない方がよいのではということになります。

 

そう意味で「学校に行っていない」子の方がより早く社会に向かっているのだと思います。まず「学校に行っていない」状態を自分でつくり出しているのですから。

子どもを守れるのは、親や周りにいる家族だけです。

子どもが「学校に行くの嫌だ。」と何らかの理由で言いだしたら、子どもの意見を尊重して子どもに選ばせてあげてほしいのです。

1の時に「のどかの意見を尊重した。」という話をすると、たまに「そんな小さい頃に自分の意見をちゃんと持つことってできるのですか?」と言う人がおられますが、子どもはもっと小さい頃から自分の意見をきちんと持っていると思います。

もっと小さい頃は、表現方法がまだあまりわかっていないだけで、どう思っているか詳しく説明できないだけだと思います。小さい頃に「イヤ、イヤ。」だけ言っている場合でも「これが嫌なの?」「ちがう」「これのこと?」「…。」「これ?」と聞いていくと、何が嫌なのかきちんと答えられると思うのです。

「学校に行く」「学校に行かない」というのは、親のことではなく子ども自身のことです。

 

自分のことは自分で決める。その代り、自分が決めたことには自分が責任を持つ。

 

息子のどかの映画「不登校のススメ」にもそういったセリフが出て来るのですが…、まさにこれだと思います。小さいうちから自分のことは自分で決めるように自分で考えるように親も子どもも心がけていけば大人になっても大丈夫。自分で考えて自分でやっていけます。

 

くれぐれも学校の先生や周りの人の声に惑わされて、「この子は精神的に弱いから○○の薬を飲まさないといけない。」などと思いこまされないよう気をつけてください。

「学校に行きたくない。」理由がたとえいじめなど心が傷つくことであったとしても、「そもそも学校って行かなくてもいいんじゃない。」という考えを持っていれば、そんな嫌な思いをする場所にわざわざ行く必要ないよね、もっと心地よい場所を探して自分にとって良い方向へ行くように考えようと親子とも思えるのではないでしょうか。

人生、いろいろなことで傷つくことは多いです。

でも、皆、それぞれ自分で自分の力で何とか傷を癒してまた新たに歩み出しています。

「学校に行きたくない。」「学校生活がどうしても馴染めない。」からと言って、精神的な問題を抱えているというわけではないと思います。薬を服用すると、必ず副作用があります。

小さな頃から薬を飲んでいると、なかなか途中でやめられないし、はじめは薬が効いて?不安な状態などがおさまるかもしれませんが、そのうち副作用が出て来てもっと大変な状態になる可能性もあります。よほどのことがない限りは、薬に頼らないようにしようと思っていた方がよいと思います。

子どもを守れるのは、一緒に暮らしている親だけなのです。

 

「学校へ行っていない時の勉強はどうしていたのですか?」 -高1の秋ー

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eboardに夢中の頃。


 

 

のどかの監督作映画「不登校のススメ」。

2019年の7月に完成し、いろいろな場所で上映会をさせていただいています。

のどかと友人2人で企画。半年ぐらいかけて脚本を作成していました。

3人とも不登校の経験がありそれぞれの経験や周りの話などを基に考えたようです。

上映会には、子どもさんが現在「不登校」で悩んでおられる方や「不登校」になりそうな状態で悩んでおられる方もたくさん参加されています。

 

その中で

「のどかくんは小学校1年生の5月から学校に行っていなかったということですが、勉強はどうされていましたか?」

という質問がありました。

 

一言で答えると

「勉強らしきことは、これと言ってほとんどしていません。」

 

のどかは小さい頃から本が好きで暇さえあれば「これ読んで」と次々持ってくるので私が時間がある時は、読んでいました。絵本から始まって今も大好きな「ドラえもん」の漫画、「ドラえもん」の学習シリーズも好きで「血液の不思議」とか「地球の不思議」とか。

のどかが理科系の学習に興味を持ったのは「ドラえもん」のおかげだと思われます。

読み聞かせは小学校2年生ぐらいまでひたすら続きました。

 

私の父が本好きで私も小さい頃から父には「本」しか買ってもらった覚えがないのですが、のどかにもひたすら「本」を送ってきてくれていました。

小1のクリスマスプレゼントがのどかのリクエストでホーキング博士の「宇宙への秘密の鍵」という子ども向けの本でした。

 

子ども向けと言ってもびっしり文字で埋まっていて300ページ以上もある分厚い本。

それをひたすら読まされ、声が嗄れました。(笑)

内容も宇宙のことが詳しく載っていて、読んでいる私は物語はよく覚えているのですが、土星がどうとか金星がどうとか・・・ただ文字を追っているだけなので内容は全然覚えておらず、1章終わるごとにのどかが「土星は・・・ってことなんやな。」と言うので「へー、そうなん・・・」と驚いては「今さっき読んでくれてたやん!」と呆れられていました。(笑)

「もうホーキングは許して~」と悲鳴を上げていたところ・・・

私に読んでもらうよりも自分で読む方が早くなってきて、気づいたら一人でどんどん本を読むようになっていました。

 

それからも次々、子ども向けでも大人向けでも気になる本を読むようになって小学校5年生の冬に滋賀県に戻ってきて学校に通うようになった時は、全校生徒に「のどかくんはすごい分厚い本を読んでるすごい!」と言われるほど読書好きになりました。

 

書く方は今でも苦手です。やはり自分で必要にせまられないとやる気にはならないようです。

一応、ある程度は書く練習もした方がいいだろうと私たちも思ったので小1の時から「絵日記」を書くようにすすめていました。

おかげで?平仮名ばかりで中学校でも宿題を提出するようになり、中学校の先生方は随分読みにくかっただろうと思います。

今はすべてパソコンで文字を入力して、脚本を書いたりN高校のレポートなどやっているので文字を書く必要がない状態のようです。

バイトの面接の前などは急遽名前や住所を漢字で書けるよう練習したりしています。これも必要となれば今からでも身に着けていくのではと思います。

 

算数はどうしても九九を覚えようとせず、自分で納得いくやり方で計算していました。

今でも九九全部は覚えていないと思います。覚えている部分と自分のやり方とを組み合わせて計算しているようです。

どうも納得できないとただひたすら暗記するということを拒否する、できないのではなく絶対にしないという感じでした。私も一度、「九九は覚えた方が楽やと思うけど・・・」と言ってみましたが、覚えなくても計算できると聞き入れませんでした。

 

余談ですが、小学校5年生で「友だちと遊びたいから」と学校に行きだしてしばらくした頃、

「なんか学校で『きょひ~るさん』って呼ばれてるねん・・・」

「なんで?」

「宿題とか拒否してるからみたいやわー。」

「うまいこと名前つけるねー!」

「ほんまに・・・結構、みんな面白いよー。」

という会話をした覚えがあります。

確かに根本的に納得しないことはやらない「きょひ~る」さんなのだなぁと納得。

 

他の教科も特に学習はしていなくて自分の興味のある本を読んでいるうちにいろいろな知識が身についていたようです。

小学校5年の12月から滋賀に戻って来て行きだした学校でも

「のどかくんはすごいもの知り。何でも聞いたら知ってる~。」と言われていたみたい。

確かにその頃は、すでに私たちも知らないことを本で読んで覚えていました。

 

小学校4年の時に知り合いの方に

「のどか、無料でネットで学習できるサイトがあるよ。面白そうやしやってみたら・・・」

と教えてもらい

「面白い!」と言ってやり出して・・・

選択式の問題がクイズのように出て来て正解したら〇!

間違っても理解できるようにすごくわかりやすい動画で説明してくれる。

 

eboardというサイトなのですが、

動画の授業が面白くて次々見たくなる。

工夫されていてわかりやすい。

理解できていない部分だけ何度も見て確認できる。

小学校から大学受験までどこからでもいつからでもやり始めたりやり直せるのがよいなぁと思いました。

 

小学校1年生から6年生までの算数は1か月で全部終わってしまいました!

子どもって興味を持ち始めたら自分で勝手にどんどん吸収していくものだなとこの時も強く感じました。だからと言って5年生の冬から行き始めた学校でどんどん勉強に励んでいたわけではありません。宿題は絶対嫌だと言ってほとんどやらず、家で勉強していたこともほとんどなかったような気がします。驚いたのは授業中は先生の話をよく聞いていて自分からどんどん手を上げて発表や質問をしていたということです。

小学校5年から中学2年までいろいろな先生方に「のどかくんはよく発表してくれてますよ!」と言われました。何度聞いても驚きでしたが、一度だけ6年の時に仕事の合間に授業参観に行った時に実際に何回も手を上げて発表していて「ほんまやー」と驚きました。

 

のどかは無理やり強制される勉強は嫌いだけど、自分から進んでする「学び」は好きなんだと思います。今でもいろいろな本を読んでいます。ネットでも気になることを調べているようで最近は私たちにはわからないネットの言語やAIのことなどを教えてもらったりすることもあります。

 

小学校や中学校の時に他のみんなと同じようにすべてのことを無理矢理しなかったことが、今でも「学びたい」という気持ちを持ち続けることにつながったのではないかと思います。

私自身のことを振り返ると、中学受験で必死で受験勉強したことで中学からの学びの気力が失われてしまったと感じることも多くあります。

これはのどかに限ったことではなく子どもたちみんなに当てはまることではないかと思います。

無理矢理学校で勉強することで学ぶ気力を失ってしまうのです。

 

「学校に行かなくなると勉強が出来なくなって後から困るんじゃないだろうか?」

と悩んでおられる方も多いのではないかと思います。

のどかや他の子どもたち、学校に行っている子や行ってない子、途中まで行ってたけど行かなくなった子・・・

いろいろな子どもたちの話を聞いたり本で読んだりネットで見たりした結果、私たちが思ったのは、

 

学校に行ってるとか行ってないとか関係なく、いわゆる大学受験に向けての勉強が好きな子はどんどん学習していくし、そういった勉強が嫌いな子は一日も休まず学校に行っていたとしても身につかないのではないかということです。無理が過ぎると身につかないだけでなく拒否反応が出て何かを考えたり新しいことを知りたいという好奇心までなくなってしまうのだと思うのです。

 

もし現在、お子さんが「学校に行きたくない。」と言っていることに対して

「行かなくてもいいよ。」と言ってしまったら、勉強ができなくなって将来この子が困ることになるかもしれないから安易には言えないと思っている方がいらっしゃれば、そんな心配は無用だと思いますよと伝えたいと思います。悩んでおられる方がおられたらぜひ伝えてください。

 

先程、紹介したeboardなど現在はネットで無料で学習できるサイトもいくつかあり、いつからでも自分で学習したい時に学習できるようになっています。普通の学校に通う程度ならわざわざ高いお金を払って塾などに通わせなくても「不登校」でも学習することはできます。

それならば「どうしても行きたくない。」と言っている子どもを無理に行かせる必要は全くないのではないかと思います。

あまり小さい頃からネットなどに触れさせたくないからその方法は・・・と思っている方がおられるかもしれません。私たちもそうでした。その場合でも全く問題はないのでしょうか?

のどかの例のようにやりたくなった時に始めれば6年分の学習を1ヶ月一通り終わらせることもできるので今まで言われていたような1年生の時からの積み重ねは必要ないのです。

 

学校の先生やおじいさん、おばあさん、近所の方やお友達の方々は悪気なく

「学校行かないと将来困るかもよ?何とか行けるようになったらいいね。」

と事あるごとにささやいてくるかもしれません。

それはその方々も「学習というのは1年生からの積み重ね」だと思い込んでいて、自分たちもそのやり方でやってきたからだと思います。

そのたびに「不登校」の子どもたちや両親は、自信をなくしそうになるかもしれません。

「やっぱり学校に無理にでも行った方が将来のためにはいいのかも?いいのだろうな。」と。

でもそのたびによく考えてほしいのです。

「無理に学校に行って傷ついて、将来何らかの弊害が出てくるかもしれない。」ことを。

そんなことになっても悪気なくささやいてきた人々は何もしてくれません。

 

自分自身を信じて、自分たちの子どもを信じて「将来のため」という文句に騙されずに現在を楽しく生きていくことで将来につながるということを伝えていきたいと思います。